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征陽会|組織

更新日:2月14日

組織名:征陽会(セイヨウカイ)

◆反社会組織 ※ヤクザ屋さん


▼組織について

妖タイプの人員を中心に構成されている。

指定反社会組織。


歴史的には120年余り、他団体に比べ比較的新興の組織ながら、構成員は全国に2000人以上と目され、近年特に台頭している。

遊郭にはじまり、戦後の闇市、赤線、歓楽街の移行、芸能などの様々に関わってきた。

古い風習を尊重しながらも、合理的でビジネスライク。インテリ系と評される事が多く、金と策略、コネクションや情報が主な武器というタイプ。


他所には表向き友好的な雰囲気で過干渉はせず、基本は自らの縄張りを守る事に注力している。他団体との揉め事を嫌う傾向があるが、いざとなると遣り口が汚いことで知られている。攻撃してくる相手はあらゆる手段で潰しにかかるため、そもそも手出しされにくい。

傘下に準暴力団レベルのチームや複数の半グレ、不良グループが存在し、征陽会がエリア内の揉め事を抑制・統率している側面もある。

元は協力関係であった華系団体「渚清」を傘下に収め、政治や警察組織とも蜜月の関係を築き、多くのフロント企業を抱える一大組織となった。

(国家権力に対して”上納”するため、敵対勢力狩りを裏で手引きすることもある。)



▼代替わりと組織再編・組織体制

現会長である論浩(トキヒロ)への代替わりの際、大きな組織再編が行われた。

従来は他の反社会組織のように会(会長)の下に組が存在し、二次団体、三次団体と裾野を広げていたが、派閥争いや小競り合いが発生し度々問題となっていたため、これを解体し改めることとした。

巨大企業のような組織形態をとり、本部、地方支部それぞれに組の代わりに部門を設けて、各部門のトップも横の繋がりの強い若手に挿げ替えている。(従来の運用に固執する古株達には金と役職を与え、権限を持たない閑職へ追いやった。)

各部門の部門長が他団体の組長クラスに相当、以下が若頭、補佐、舎弟頭等に値する。



▼噺家一門「陽朧亭」(ヨウロウテイ)との関係

一門創設当初から、征陽会がタニマチ(パトロン)だった。会が一門すべての面倒を見る代わりに、代々一門の長が征陽会の二番手を務め、芸能界を通して様々なコネクションを広げる役割を果たしてきた。どちらかが倒れた時はもう一方が相手方の後継を定める決まりで、血よりも濃い蜜月の関係を結んでいる。

現在では他方に忙しい会長に代わり、表立った仕事の殆どを陽朧亭の長である調世が征陽会副会長として担っている。



▼傘下やフロント企業との関係

・華系団体「渚清」(ジューチン)

 征陽会傘下、華系反社会組織。戦後から協力団体として永く良好な関係を築いてきたが、内部抗争の末に弱体化してしまった。抗争の鎮圧と組織存続のため、現頭目である滄海(ソウカイ/チャンハイ)を筆頭とし、征陽会の傘下に収まる事となった。

元は本国にも大きな拠点を構え、一大勢力を誇る華系組織であり、征陽会の物流や資金洗浄に大きく関り、本国の勢力を含めて考えれば征陽会を上回る組織力だった。関連企業に投資会社、汪洋(オウヨウ)がある。


・ファロス(PHAROS)、ブレッシングバースオフィス(Blessing Birth Office)

 征陽会フロント企業。いずれも代表取締役は融祝(ユウイ)となっている。

ブレッシングバースオフィス(BBO)は大手芸能プロダクションであり、企画制作から興行までを自社で行える企業力を持ち、文化人からモデル、タレントまで幅広いジャンルをカバーする。征陽会の持ち物であり、征陽会副会長である調世も、噺家として所属扱いとなっている。

 ファロスは情報・メディアサービス、IT事業に特化したBBO関連企業。征陽会からの資金援助をうけて融祝が学生の頃に立ち上げ成長してきた。


メモ📝


イメージエリアとバックボーン:

◆新宿

 本部・会長邸宅:新宿御苑~

 事務所・店舗:歌舞伎町~新宿5~7丁目


宿場町であった新宿、大きな街道の追分点が現在の新宿伊勢丹前の交差点あたりだった。江戸時代から新宿御苑側に大きな邸宅や宿が立ち並んでいて、このころの「新宿」は伊勢丹~新宿御苑あたりを指していた。(※1699年~江戸ごろはまだ西の荻窪方面は殆ど何もなく、神田川を挟んで寺院などがちらほら)

1885年(明治18年)に鉄道が開通し新宿駅ができ、今の新宿駅前に徐々に中心部が移っていったとされる。1897年(明治30年)には寄席・末廣亭が開業、現在のタカノフルーツパーラが明治33年、中村屋が明治42年に創業している。


1902年(明治35年)頃には現在の四谷消防署あたりを中心に、二十数軒の貸座敷(という体裁の妓楼)が存在していたという。(新宿エリア全体では50軒以上)

しかし、1906年(明治39年)に新宿御苑の整備のため、皇族や来賓の訪れる遊宴地近隣に妓楼が立ち並ぶことを問題視した政府がこれらの移動を命じる。 紆余曲折あり、1922年(大正11年)、現在の新宿2丁目・3丁目に50件あまりの宿が立ち並ぶ新宿遊廓がスタートする。

そののち、戦後に赤線・青線の規制があり店は姿を潜め、繁華街は徐々に歌舞伎町側に移り、現在の様相に至る。


戦後、歌舞伎町エリアは華僑の力が強く、現存するビルも中華系の名前が付くものが多い。

日本のヤクザと手を結ぶ華系マフィアも存在していたといわれる。


団章イメージ:昼、眩しい光、妖タイプ









 

▼組織幹部・各部責任者

会長:

副会長:

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▼主な関係者

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